開基島田家の沿革

永源寺開基
                        島田利秀入道永源
永源寺開基
島田利秀入道永源

永源寺の開基島田家は清和源氏の流れを汲み土岐光信より九代、満貞によって島田姓となりました。永源寺創立を期した島田重次の祖父十兵衛は今川勢が松平竹千代(家康幼名)を攻めた折、岡崎城にて討死にしています。

重次は三州矢矧に生まれ、始め家康に仕え、関が原の合戦に鉄砲の将として活躍、その後二代将軍秀忠に属し大阪の陣には御旗奉行も兼任し寛永14年(1637)90歳で坂戸にて没しています。この重次の経歴を刻んだ銅版の墓碑は当寺の寺宝とされています。

その後島田一族は土岐の正流と云う名門であるが故に徳川幕府の重臣を多く輩出しました。即ち重次の二男成重は二千五石を賜わり三河に分家、法性寺を建立して開基となり、四男越前守直時は初代大阪西町奉行に任じ堺町奉行を兼任しました。

永源寺創立の直系は五男の系統で弾正忠次兵衛利正は、直参旗本三千石を賜わり江戸北町奉行に任ぜられ湯島に江戸屋敷を構えました。利正の四男、出雲守忠政に至って島田家は全盛を極め直参旗本三千八百石となり寛文二年(1662)長崎奉行を拝し、引き続き江戸北町奉行を歴任、有名な伊達騒動の結末に介入しています。

島田権三郎利直は四代将軍家綱の御小姓をつとめ、名妓高尾大夫の意中の人として伊達六十二万石を相手に大夫と共に悲恋の生涯に身を埋めた悲運の主人公として有名であります。

忠政の子、大和守、丹波守利由は大目付に任ぜられ二千五百石、佐渡守政辰は普請奉行、御旗奉行に、越中守重頼は、大阪西町奉行に任ぜられ、千八百石等、徳川幕府の重職に列をなしました。